cornelius

※本文中、いじめについての具体的な記述があるため、お読みになる際はご注意をお願いいたします。

【いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明】

あらためましてこの度は、私の過去のインタビュー記事が元となり、多くの方々を傷付け、不快な気持ちにさせてしまいましたことを心からお詫びいたします。誠に申し訳ございません。

今から約27年前に出版された『ROCKIN'ON JAPAN (1994年1月号)』と『QUICK JAPAN (1995年8月号)』の記事内容につきまして、これまでに説明や謝罪をしてこなかったことにつきましても、責任感のない不誠実な態度であったと思います。特に、長年に渡ってそれらが拡散されることで、倫理観に乏しい考え方や、いじめや暴力に対しての軽率な認識を助長することに繋がっていた可能性もあり、これまでそのことに真摯に向き合わず時間が経ってしまったことはとても大きな過ちでした。

今の私にできることは、過去と向き合い、事実を説明させていただくこと、そして、その反省をあらためて今後の社会生活へと活かしていくことであると考えています。 なお、事実関係をご説明するにあたり、私からの一方的な発信だけでは不十分であると考え、第三者からの厳しい質問もしっかり受け止めるべきとの思いから、先日、『週刊文春』の取材を受けました。そのうえで、海外の皆様も含めて、経緯や状況の説明をさせていただくべきと考え、あらためて認識を表明いたします。

『ROCKIN'ON JAPAN (1994年1月号)』の誌面にて見出しとして記載され、この度多く報道されていた「同級生に排泄物を食べさせた、自慰行為をさせた」といった内容については、私が行わせたり、示唆や強要をしたといった事実は一切ありません。
「排泄物を食べさせた」ということについては、小学校の帰り道に、クラスメイトの一人がふざけて道端の犬の糞を食べられると言い出し、拾って口に入れてすぐに吐き出したという出来事があり、彼本人も含めその場にいた皆で笑っていたという話が事実です。
「自慰行為をさせた」という部分については、中学校の修学旅行の際、ある先輩が、私のクラスメイトの男子に対し、自慰行為をしろと言っている場面に居合わせ、限度を超えた状況に自分は引いてしまったということが事実です。

1994年当時、半生を語るというロングインタビューのなかで、学生時代の様々な出来事を語った際、上記のような目撃談など、強く記憶に残っていたことを語ってしまいました。

『ROCKIN'ON JAPAN』については、発売前の原稿確認ができなかったため、自分が語った内容がどのようにピックアップされて誌面になっているかを知ったのは、発売された後でした。それを目にしたときに、事実と異なる見出しや、一連の行為を全て私が行ったとの誤解を招く誌面にショックを受けましたが、暴力行為を目にした現場で傍観者になってしまったことも加担と言えますし、その目撃談を語ってしまったことは自分にも責任があると感じ、当時は誌面の訂正を求めず、静観するという判断に至ってしまいました。
しかしその判断についても、被害者の方の気持ちや二次被害の可能性に考えが及んでいない、間違った判断であったと深く反省しています。

その後の『QUICK JAPAN (1995年8月号)』につきましても、取材依頼や企画をすべてしっかりと拒否するべきでした。出版社の方から提示された「いじめを題材とする」という企画や意図は、今の自分の認識で考えると、被害者や同じ立場の方々の気持ちに対する配慮や倫理観に欠けたものであると思いますし、先方の説得に応じて話をしてしまったことをとても後悔しています。
『ROCKIN'ON JAPAN』で誤って拡がってしまった情報を修正したいという気持ちも少なからずあったと記憶しています。とはいえ、その場の空気に流されて、訊かれるがままに様々な話をしている自分は、口調や言葉選びを含め、とても未熟で浅はかでした。また、学生時代の話を具体的に語ったことで、母校の在校生や関係者の方々にも大変なご迷惑とご心配をお掛けしてしまったことを、心から申し訳なく思います。

その後、2000年代に入って以降、『ROCKIN'ON JAPAN』の見出しや『QUICK JAPAN 』の記事を切り取った内容で書かれた一般の方のブログ記事や掲示板の書き込みなどが現れ、それらが今回の報道でニュース・ソースとされ、私が行った暴力行為として各国の報道やSNS等で拡散されている状況があります。

『QUICK JAPAN (1995年8月号)』の記事では、知的障がいを持つ生徒についての話が何度か出てきます。報道やSNS等では、私がその生徒に対し、「障がいがあることを理由に陰惨な暴力行為を長年に渡って続けた」ということになっていますが、そのような事実はありません。
しかし、誌面にも記述がある通り、小学生の頃、転校生としてやってきた彼に対し、子どもの頃の自分やクラスメイトは、彼に障がいがあるということすら理解できておらず、それ故に遠慮のない好奇心をぶつけていたと思います。
今にして思えば、小学生時代に自分たちが行ってしまった、ダンボール箱の中で黒板消しの粉をかけるなどの行為は、日常の遊びという範疇を超えて、いじめ加害になっていたと認識しています。子どもの頃の自分の無自覚さや、雑誌でそのことを話した20代の自分の愚かさによって、彼や同じような体験を持つ方を傷付けてしまい、大変申し訳なく思っています。その彼とは中学ではほとんど接点がなく、高校に入り同じクラスになって再会してからは、会話をする機会も増え、手紙や年賀状のやり取りをするなど、自分にとっては友人の一人でした。小学生時代の自分が彼を傷付けたことは事実ですし、雑誌であのように軽率に語っている以上、それは自分の一方的な認識ではないのかと思われても仕方がありませんが、高校生時代の実体験としての彼との日常を思い返すと、友人という言い方以外は難しいというのが正直な気持ちです。

今あらためて、27年前の自分がなぜあんなに軽率に話が出来ていたのかと思い返してみると、10歳前後の頃の行為に対する罪の意識が、非常に無責任ですが、インタビュー当時においても希薄であったのだと思います。それ以降の話は、目撃談ということもあり、それもまた他人事のように捉え、傍観者という自分の卑怯な立場を含め冗談交じりに語ってしまいました。自分が被害者やそのご家族の立場であれば、そのように無神経に語られることも、加害であることに変わりないと感じると思います。それをずっと忘れることなく、反省の気持ちを持ち続けていかねばならないと思っています。

そういったインタビューを受けていた24歳~25歳頃の私は、かつて所属していたバンドを解散して、ソロでの活動を始めた時期でした。当時は、自分に対してなんとなく定着してしまったイメージを破り、露悪的なキャラクターを演じることで世間からの見られ方を変えようとしていました。過剰で自虐的なリップサービスを必要以上に行うことで、世間との距離を取ることを意識していました。自分の作品に対する自信のなさも、そういった言動の原因になっていたと思います。

そのような未熟な自分の在り方を改めたいと思い始めたのは、1996年頃、26歳から27歳にかけてでした。深く音楽の話ができるような新しい友人や人間関係の出会いに恵まれ、コミュニケーションを取っていくうちに、それまでの自己中心的で狭い世界しか見えていない自分や、作品よりも私のキャラクターばかりが注目されるような状況がとても恥ずかしく感じ、なんとか変えていかなければいけないと強く思うようになりました。そこからは、自分を過剰に演出することをやめ、自然体で音楽制作や活動に取り組むことを意識した結果、少しずつ自分の理想とする作品や活動に繋げていくことができるようになったと感じています。

30歳になり、息子が生まれたことも、自分を大きく変えてくれるきっかけとなりました。彼を育て、一緒に過ごしていく過程で、今まで触れてこなかった社会や人々と関わることによって、人生を再学習していくような気持ちでした。

私の社会人としての成長は、ほかの多くの人たちに比べて遅く、時間が掛かってしまったのだと思います。この25年の間で、立派な人間になったとまでは言えませんが、20代当時の価値観とは遠く離れた人間になったと思っています。この件に対する罪悪感をずっと抱えてきたことが、より良い人間・音楽家になりたいという意識を強くすることにも繋がっていました。

しかしそれは、自分の中でそう感じていただけで、過去の態度や発言の責任を取っていたかというとそうではないと思います。そのことに長年、罪悪感と後ろめたさを感じていながら、どのように発信すべきか判断できないまま、ここまできてしまった自分は説得力に欠け、社会人として、とても情けなく思います。

これは過去の問題ではなく、今まで向き合ってこなかった現在進行形の自分の問題であると強く認識し、責任を感じております。そんな人間が、教育番組やオリンピック・パラリンピックの仕事に関わることを非難されるのは当然のことだと受け止めています。

NHKの「デザインあ」に関しましては、これまでに何度か、私が番組に関わることへのご批判の声もあり、その際には、「インターネット上にあるいじめに関する記事や書き込みは事実と異なる」旨や、「その原因となる発言をしてしまったことへのお詫び」、「現在の自分の倫理観は20代の頃とは大きく変わっている」といったことを番組の担当スタッフの方を通じて、その都度お伝えさせていただいておりました。しかし、それは限られた場での対応でしたので、本来であれば、もっと広く公に、謝罪や説明をするべきであったと反省しております。

10年間携わらせていただいた「デザインあ」は、自分の仕事の中でも、特に思い入れの深いものでした。番組制作に参加させていただいたことで、自分の音楽が初めて社会との繋がりを持てたような充実感があり、子どもたちの感性を刺激する手伝いをさせてもらえることに、自分の作品作りだけでは味わったことのない種類の喜びを感じておりました。番組の成長と共に、私自身も大変多くのことを学ばせていただきました。そのような機会を10年間も与えていただけたことに、すごく感謝しています。

オリンピック・パラリンピックについては、先の謝罪の際にも記載させていただきましたが、コロナ禍での開催という厳しい状況においても、少しでも良いものを作りたいと、限られたスケジュールの中で懸命に取り組まれていた制作チームの皆様のお気持ちに触れ、自分が役に立てることがあるのならばという思いでご依頼をお受けしました。制作の内容も、自分がパフォーマンスをしたり、メインの作曲をしたりするようなものではなく、開会式に使用される映像の一部にBGMを付ける裏方の作業であったため、普段やっている他の仕事と同じような感覚で引き受けてしまいました。
しかしその判断は、今にして思えば間違っていたと思います。
五輪の仕事に携わることの責任の重さを、十分に認識できていませんでした。そのことを深く反省しています。

今回、誤った情報の拡散や報道もありましたが、元はといえば、自分の過ちが招いたことだと思いますし、それを放置してきてしまったことへの責任を痛感しております。 ファンの皆様にも、長い間、事実関係の説明などをしてこなかったことで心配と不信感を与えてしまい、本当に申し訳ありませんでした。今後の活動や作品の発表などについては何も決まっておらず完全に白紙の状態です。しかしこのような状況の中でも、あたたかいお手紙や励ましの言葉をかけてくださったり、様々なかたちで応援してくださるファンの方々の存在は、とても大きな支えになっています。心から感謝しています。

長い時間が掛かってしまいましたが、あらためてこれから、自分の過去の言動やこれまでの態度を反省すると共に、社会に対してどのようなかたちで関わり、貢献していくべきかを個人としても音楽家としても、今まで以上に視野と意識を広げて考え、行動に移していきたいと思っています。

小山田 圭吾

2021年9月17日

東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への参加につきまして

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